「今、君が起っている、其処が山頂だよ」と、お山の響。
今日(6/18)は、日帰りで、飯豊へ、切合まで。
若いときなら、3歩で歩けたところに、4歩、5歩。
面目ないような、引け目のような、ばつが悪く?~ちょっと、かなしい。
でも、そうした器官、感覚が衰えればおとえるほど、
お山におどろく心はとぎすまされ、ふかみゆきます。
川入なる御沢野営場に車を置かせて頂き、飯豊道に客となります。
下十五里。前回の様な失態(!)はなく、胸を張って?(笑)
路傍の花々のエ~ルがうれしい。
お日様の頌に歩を合わせます。
地蔵を巻くと、三国岳の御出座し。
恵みの水を有難く頂戴します。
ヒメサユリの目迎に与って・・・
えっちらおっちら?剣ヶ峰。
しばし眺覧、周覧。
飯豊の清爽。
振り返って、剣ヶ峰。
七森の断崖に鼓舞されて・・・
三国岳を頂きました。
此処までで4時間ちょっと。切合に着いていてもおかしくない時間です。
泊り装備なら「御の字」ですが、日帰り装備では、ちょっと・・・。
この現実は、現実として、受け留めねばなりません。
管理人さんがおられるようなので、お声がけすると・・・
何と、以前、本山小屋の管理人だった高橋さんの姿が。
少し遅れて上って来たリョウ君と高橋さん。
二人の会話に、大日岳が耳をそばだてています。
リョウ君にお尻を叩かれ?「いざ」。
でも、のっそのっそと亀歩き。
途中で、本山小屋から下って来られたkanekoさん御一行とスライド。
心友のカンバ、息災で何より。
種蒔山が迫ります。
種蒔山の頂稜に起てば、飯豊本山の精爽。
無沙汰を詫びれば、"Welcome home, my friend"。
親昵の響。
切合はいいロケーション。
切合小屋に着くと、小国山岳会の面々とバッタリ。
シミケンさんは、すっかり猛者(!)の貫録。御西小屋で一仕事して来たそうな。
ヘリ荷上げ品の荷捌きから、修繕、し尿汲み取りまで、ご苦労様でした。
それに、何と、一昨年の日帰りの際、道々ご一緒したAyaさんの姿が。
その後、彼女は発起して小国山岳会に入会、ピカピカの一年生とか。
・・・グングン強イ芽ヲ噴イテ、ドコマデノビルカワカラナイ・・・
まぶしいなぁ。
ただ忘れずにいて下さい、心の片隅に。
山は「われら」でなく、「われ」であることを。
第一人称の単数であって、人数また集合でないことを。
山は全般的、また社交的なことでなく、
個人的、一身的なことであることを。
山は「われ」の心の奥底にみいだされるのであり、決して、
知識だけ、業だけの「専門家」になりませんように。
小国山岳会、飯豊朝日を愛する会のみな様、お一人おひとりに
・・・雲カラモ風カラモ、透明ナチカラガウツレ・・・
(カタカナ文字~賢治)
辞して、見晴らしの岩場へ。
お山を前に礼敬すれば、"Welcome, my friend"。
私は静かに、息づき、満ち足り、自由にされました。
もう、山頂に着いていい時間です、疲労も相応しています。
一かバチか、行けるところまで~は利己心から出て来る誘いです。
観念的にはいざ知らず、この生身をあげて振舞おうとすれば、
おのずから、道は一本しか示されません。
私には責任があります、自らの山行を完遂する責任が。
たとえ山頂は踏まずとも、無事の帰宅こそが、山行の完遂なのです。
登山とは、山を愛すること。
人間の愛情がその基礎にあることは、明白です。
もちろん、定義としては尽くされておらず、不十分。
そこには、山を頂かんとする意力、実行力が伴います。
そして、人はみな一人一人、種々の限定を帯びた存在である以上、
そこには、当然、思慮が伴います。
或いは衝動の様に、或いは利己心からでた登山という振舞いでしたが、
お山にたすけられ、かばわれ、いつしか、不思議なことに、
自分を誇るための山ではない、山を誇るための自分なのだと、
そんな思いへ変えられてきました。
「友よ、そこが山頂だ」。
天上には、まなざし。
"Grace be with you".
いい時間を過ごせました。深謝。
帰るとしましょう。
飯豊本山に、いとまを告げて。
後は、すたこら?~とはいかず、のっそのっそと。
"See you, later".
三国小屋が見えて来ました。
三国小屋では小国山岳会の皆さんが一休み。しばし、歓談。
高橋さんにご挨拶し、少し遅れて、剣ヶ峰の岩稜へ。・・・
路傍の花々の慰撫慰待に与りながらの、カメ運歩。
今日は、亡き母が愛用した杖も一緒。扶けてくれました。
森の精霊の祝福に与って・・・
無事の下山、
恩威の山路に
感謝、感謝、感謝。
fin