堂山王子神社『奥ノ院』から望む、高柴山。
今日(12/4)は、阿武隈高原中部県立自然公園『高柴山』(884M)
及び、堂山王子緑地環境保全地域を見回ります。
昨日など最低気温が零下5度近くにもなり、「寒冷の候」いよいよ。
予報に「お日様マーク」がつくと、それだけであたたかく感じてしまいます。
ザックのベルトをギュッとしめ、いざ。
杉林を抜ければ、陽だまり。
落葉を踏みしめサクッサクッ・・・冬枯れの径は心地よい。
見晴台は傷んだまま。
陽精の頌に、歩を合せます。
『水石』着(『三つ石』とも)。あぶくまが沁みてきます。
さぁ、山頂部。
避難小屋を見回って・・・
展望台へ。
上がって・・・
しばし、眺覧、周覧。
阿武隈の響に耳澄ませます。
さて、展望台を後に、一帯を見回ります。
トイレ。キレイに大切に使いましょう。
郡山は曇天かな?
少しは陽が射しているようです。
左が日影山、右が一盃山。奥は蓬田岳。一盃山は未踏。
展望台に戻って、ひと息。
あぶくまの暢然にひたります。
最近、或る方が山行記録で、山の大先輩を「~先生」と記しておられた。
誠実な方だから、きっと精一杯の尊敬をこめて、そうお呼びしたのでしょう。
でもその大先輩は、「先生」と呼ばれてうれしいのでしょうか、
私には、どうにも、彼の喜ぶ顔が浮かびません。
私は愚かな人間ですが、ありがたいことに、70年近くも生かされてきました。
これまで、たくさんの「先生」と呼ばれる方々、
ちょっとイヤな言い方をお許し頂けば、「先生」と呼ばれて平気な人たちに、
接してきました。
~「先生」と口に出されるとき、そこにどんなに「尊敬」が込められようとも、
そこには、一抹の「阿り」があり、影のように、偽善や欺瞞がつきまとう。
「先生」と呼ぶ方も、呼ばれる方も、精神衛生上きわめてよくない・・・
これが私の、感想と言えば、感想です。
新約書の中で、―
イエスは、とある者にひざまかれて「善い先生」と呼びかけられたとき、
「なぜ、そう呼ぶのか、神おひとりのほかに善いかたはない」と反し、
そして、弟子たちに向っては、
「(世間で名士とされる者たちは)宴会の上座や会堂の上席を好み、
広場で挨拶されることや、人々から『先生』と呼ばれることを喜ぶ。
しかしあなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。
あなたがたはみな兄弟だからである」と仰いました。
詩情あふれる山行記録に、
「先生」という言葉を見て違和を覚えたのは、私だけかな。
"山と人との間に「先生」などおらぬ"、
・・・陽精が、肯ってくれました。
ん~、天上に、まなざし。
一帯に、異状のあるなく、安堵。
『水石』(三つ石)に戻って、ちょっと、飲み食い。
本日は、ラーメン無し。(笑)
さて、帰るとしましょう。
木々と言葉を交わしながら・・・
後は、すたこら。
阿武隈のねぎらいエ~ルに与って・・・
無事の下山、
調暢の山路に、
感謝。感謝。
fin