あるく

~山の恵みの備忘録~

高柴山/調暢 2022年12月4日

堂山王子神社『奥ノ院』から望む、高柴山。

 

今日(12/4)は、阿武隈高原中部県立自然公園『高柴山』(884M)

及び、堂山王子緑地環境保全地域を見回ります。

 

昨日など最低気温が零下5度近くにもなり、「寒冷の候」いよいよ。

予報に「お日様マーク」がつくと、それだけであたたかく感じてしまいます。

山では、万有引力に抗して運歩、体が燃えるはず?

 

 

堂山王子神社から、いつもの門沢登山口へ。

ザックのベルトをギュッとしめ、いざ。

 

杉林を抜ければ、陽だまり。

 

落葉を踏みしめサクッサクッ・・・冬枯れの径は心地よい。

 

見晴台は傷んだまま。

 

陽精の頌に、歩を合せます。

 

 

『水石』着(『三つ石』とも)。あぶくまが沁みてきます。

 

さぁ、山頂部。

 

避難小屋を見回って・・・

 

展望台へ。

 

上がって・・・

 

しばし、眺覧、周覧。

 

阿武隈の響に耳澄ませます。

 

 

 

 

さて、展望台を後に、一帯を見回ります。

 

トイレ。キレイに大切に使いましょう。

 

郡山は曇天かな?

 

少しは陽が射しているようです。

 

左が日影山、右が一盃山。奥は蓬田岳。一盃山は未踏。

 

展望台に戻って、ひと息。

 

あぶくまの暢然にひたります。

 

 

 

 

最近、或る方が山行記録で、山の大先輩を「~先生」と記しておられた。

誠実な方だから、きっと精一杯の尊敬をこめて、そうお呼びしたのでしょう。

でもその大先輩は、「先生」と呼ばれてうれしいのでしょうか、

私には、どうにも、彼の喜ぶ顔が浮かびません。

私は愚かな人間ですが、ありがたいことに、70年近くも生かされてきました。

これまで、たくさんの「先生」と呼ばれる方々、

ちょっとイヤな言い方をお許し頂けば、「先生」と呼ばれて平気な人たちに、

接してきました。

~「先生」と口に出されるとき、そこにどんなに「尊敬」が込められようとも、

そこには、一抹の「阿り」があり、影のように、偽善や欺瞞がつきまとう。

「先生」と呼ぶ方も、呼ばれる方も、精神衛生上きわめてよくない・・・

これが私の、感想と言えば、感想です。

 

新約書の中で、―

エスは、とある者にひざまかれて「善い先生」と呼びかけられたとき、

「なぜ、そう呼ぶのか、神おひとりのほかに善いかたはない」と反し、

そして、弟子たちに向っては、

「(世間で名士とされる者たちは)宴会の上座や会堂の上席を好み、

広場で挨拶されることや、人々から『先生』と呼ばれることを喜ぶ。

しかしあなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。

あなたがたはみな兄弟だからである」と仰いました。

 

詩情あふれる山行記録に、

「先生」という言葉を見て違和を覚えたのは、私だけかな。

 

 

"山と人との間に「先生」などおらぬ"、

・・・陽精が、肯ってくれました。

 

 

 

ん~、天上に、まなざし。

 

一帯に、異状のあるなく、安堵。

 

『水石』(三つ石)に戻って、ちょっと、飲み食い。

本日は、ラーメン無し。(笑)

 

 

さて、帰るとしましょう。

 

 

 

 

木々と言葉を交わしながら・・・

 

後は、すたこら。

 

阿武隈のねぎらいエ~ルに与って・・・

 

無事の下山、

調暢の山路に、

感謝。感謝。

 

fin