あるく

~山の恵みの備忘録~

やさしさ

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 たくさんの人が飯豊の山に入ります。
「心」・「技」・「体」・・・そのたかは様々です。
飯豊は易しい山ではないと思います。ある方にとっては能力を超える山であるかも知れません。だから、ギリギリのところで行動していると、考えられないようなミスを犯してしまうものです。そして、そのミスを正しく認識・評価できずに、さらにミスを重ねる・・・。こうして窮地に陥り、困難な状況を余儀なくされてしまう。
 
 こんな事がありました。
下山の路を誤り、その事を途中に1時間ほど下った辺りで、すれ違う上りの登山者とのやりとりで認識しながら、切合の分岐まで戻ることをせず、「下りてハイヤー呼べばいい」、「誰かの車に乗せてもらおう」という安易な、たかをくくった考えで大日杉小屋まで下りて来てしまった三人のパーティ。携帯は圏外、小屋に電話なく困り果て、下りて来た私を見つけるや、「ラッキー」とばかりに、助けてくれるのが当然といった顔で私の車に寄って来る。あなた達よ、自力で川入に戻れない、他人の助けなしに自らの登山を完遂する事が出来ない、これを遭難というのですよ。自覚してますか? 
 私のへっぽこ軽自動車にザック持ちの泥だらけの三人、・・・登山という行為に対して一本芯が抜けている、このたかをくくった態度に、私は不愉快さも手伝って、気分が少し悪くなってしまいました。
 ハイヤーを呼んであげたとして、川入までの距離を考えれば、とても半端な金額ではないだろう。見るに忍びず、タクシーがひろえる熱塩加納まで乗せてあげることに。でも車中、不機嫌を隠すことは出来ませんでした。私は意地の悪い、イヤな奴なのでしょう。別れ際、「ガソリン代」、などと言い掛けた三人を遮って固辞し、一言申し上げました、
「これで何も学ばないのなら、登山やめてください。必ずもっと深刻な事故を起こし、みんな迷惑しますから」。

 未熟、たしかに、ある意味「未熟さ」(「思い上がり」は裏返しの「未熟さ」です)に由るものですが、「強い」人、「エライ」人は得てして、この「未熟さ」を冷たく見下ろし、その非を詰り、トゲトゲしく扱ってしまいがちです。でも、人を叱ったり、非難したりしても、残るものは「エラ」ぶった悪臭だけです。そんな慰めのない「強い」人、「エライ」人の一番の対極にいると思っていたはずの自分が、悲しい哉、いつのまにか困難の最中に在るひとの非を詰っていたのでした。恥ずかしいですね。

 私は他人(ひと)様より失敗の多い人間です。これまでも赦してもらいかばってもらわなければ、とても生きて来れなかったでしょう。彼らを詰る資格などありません。彼らの困難の大部分を解消してあげることができたとは言え、私の「不機嫌」は彼らを不快にさせ、彼らの心の中の「山」を傷つけてしまったやも知れません。

「やさしさ」は信実がなければ生まれません。「やさしさ」は謙遜でなければ顕れません。そして、何より「やさしさ」は愛がなければ空しいものです。山に上ることで、生来の傲慢を砕いてもらい、山の慈愛と峻厳、山の巨きく寛やかな心を、小さな形骸に満々と享け、その恵みを灯す人間に、私はなりたい・・・。