今日(1/13)は、二ツ箭山へ。
先の週、気にかかったお山がありましたが、少し時期をずらすことに。
寒いこの時季、こうして、お山に陽光燦燦の温もりを求めてしまうのは、
軟弱?
いえいえ、これこそ良風美俗と?言わねばなりません。
かく言い張り、言い籠めたとしても、誰も咎めだてはしないはず。(笑)
たどり着いた岩場のテラスには、温藹。愉快なひと時に、恵まれました。
感謝。
御滝にご挨拶。
滴る、謙廉。
水の翔逸、翔華、翔踊。その時間に歩を合せます。
〆張り場から、山脊へ。
樹間に、男岩が。
岩場に直下。呼ばわる響に耳澄ませます。
"天へ、天から生きよ"と。
男岩、女岩を分つ基部へと上がれば、月山のエ~ル。
そして、さらに上がれば、男岩のエ~ル。
女岩を頂きました。
陽精の頌歌、洋の真率を、総身に享けて、黙想。
お正月は、ついつい、TV。その中の一つ、『プレバト!!』は、
俳句をたしなむ母が、毎回、楽しみにしているので、一緒にゲラゲラ笑いながら。
1/3は、たしか、『冬麗戦』。
いつもは、すぐ忘れてしまうような句が多い中、東国原英夫さんの苦心の句、
「凍蠅よ 生産性の 我にあるや」が、心に残りました。
生産性を云々する思考の背後にある基準は、「経済的⇔不経済」でしょうか?
要は、「お金」の形で利益をあげるかあげないか、であり、
「お金が至上の価値だ」という主張なのです。
この、なんでもかんでもに、値段をつけるという、たちの悪い考えが、
文明を破壊しているのではないですか?
山に登るという振る舞いに限ってみても、それは、生命の営みであり、
値段などつけられようはずもなく、値段がつくものに、つまり、
費用/便益の経済計算の枠の中に、神聖さなどありえようはずもないのです。
私など、一匹の「凍蠅」に過ぎません。が、その中には、
かけがえのない神聖さが、「生」命を「産」む「性」真が、籠められている、
そう、思っています。
この句に接し、東国原さんを、すこし近しく感じました。
洋は、その真率を透して、肯っています。
昨日も来たという、T田さん。感慨や、如何。
さて、テラスへ。
流石に、日曜日、大賑わいです。
satouさんの脇が空いていて、ラッキー?(笑)
歓談、四方山話。
早速、鍋焼きうどんの準備。
先の週、todaさんの食べっぷりに触発され?鍋持参。
うどんに、ネギ、白菜、油揚げ、ソーセージなど、下拵えをした具材を入れ、
さらに卵、天婦羅をのせて、着火。
お喋りをしながら待っていると、出来上がりました。
しかし、このボリューム。量が多すぎたかな?(笑)
でも、残さず食べるのが、山のおきて!
陽精は、呵呵大笑?
みなさんを見送り、居残った三人で、さらに、山談義。
さて、いい時間を過ごせました。
雲さんが出張り、ぬくぬくタイムは了りの様子です。
おいとますることに。
往路を復します。
男岩は巻いて。
抜き足、差し足、忍び足の?一枚岩。
水の謙廉に歩を合わせます。
アワアワ、プクプク、~
水の精は、どんな思想の交換をしているのかな?
御滝に礼して、山路は了り。
無事の下山、
温藹の山路に、
感謝。
Fin