今日(11/5)は、
阿武隈高原中部県立自然公園『高柴山』
及び、
堂山王子緑地環境保全地域
を見廻ります。
風や雲のもてなしを、やや、うけはしたものの、
陽精が面目を施し、総じて、うららかな日和に。
心ゆくまで秋深の山路を愉しむことがゆるされました。
感謝。
いつもの門沢登山口から。
ハーベストビレッジは、すっかり丸坊主に。
落葉をサクサク、踏みしめ。
秋の宴は仕舞いかな。
山頂部が近づくと、何やら賑やか、発動音。
その主は、総代のkobayasiさんでした。
今日は門沢地区のみなさんで下草刈りとのこと、
「ご苦労様です」。
しばし、歓談、四方山話。
並み居る精鋭のみなさんに、ご挨拶。
少し歩を運ぶと、元気いっぱいの andouさん。
「ありがとうございます」。
続いて、suzukiさんも。
避難小屋を廻って、展望台へ。
一帯を見廻ります。
ちらりほらりと、返り花。
咲く、そのひとすじの気持に、打たれます。
そこには…
生命の渾身。
座間市で、凄惨な事件が起こりました。
すべてが商品化され、
幸せや、生きる意味は「富」にこそあるとされ、
人の優劣はその「富」への貢献度にあるとされる、この社会。
「成長」が神棚にまつられ、経済の志向はこぞって極大化です。
生産と消費の絶えざる増大によって、
化石燃料は枯渇し、自然資本は食い潰され、
人間性は蝕まれてゆきます。
あるいは、先達の言葉にあるように、
「人間性は国民総生産GNPでは測れない。
測れるのは、それが失われたときに現れる徴候だけであろう」、
犯罪、麻薬、暴力行為、精神障害、反抗、…
これらの徴候は、競争に敗れ、適応を能くせず、
自らの居場所と自尊心とを失った人間の状態、なのかも知れません。
新約書にパウロは曰いました、
「思い違いをしてはいけません。
人は自分の蒔いたものを刈り取ります。
自分の"肉"という畑に種を蒔く者は、
"肉"から滅びを刈り取り、
"霊"という畑に種を蒔く者は、
"霊"から永遠のいのちを刈り取るのです」と。
いつも私を励ます言葉があります。
「君の人生が、たとえどんなに挫折し、不幸であろうとも、
またどんなに無用で余計な存在のように思われようとも、
君は決して自己に絶望することはないであろう。
君の生命は神のものなのだ。だから、
神のすべての天使が君と共にあり、赦しと助けと希望とが、
尽きることなく、無限に、決して挫折することなきものとして、
君のために備えられている。だからこそ君は、
たとえ自分の人生がいかに成り行こうとも、
自分の生命を投げ捨てようなどと、
決して考えることができなくなるのである。
君は生きることを許されているのであって、
生きなければならない、というのではない」。
(Karl Barth)。
さて、異状なし。
展望台に戻りました。
つましい昼餉です。
陽精の御出座し。
終えて、
登山者の方と山座同定です。
ぐるっと、周覧のひと時。
阿武隈の暢暢に沐浴します。
陽精には、頌歌。
その祈りは、"Grace be with you".
樹々が唱を合せます。
さて、そろそろ、お昼。
帰るとしましょう。
(水石から、片曽根山と移ヶ岳)
落葉を踏む音が愉しい。
陽精と木立の大合唱。
(このあたりに、太陽光発電施設が計画されています)
水の精の、ねぎらいエ~ルに与れば…
山路の終了です。
無事の下山、
生命の恵然に、
感謝、感謝。
Fin