お~い、ばんだいさ~ん!
今日(2/28)は、移ヶ岳へ。
あれやこれやで身の回りが忙しくなってきました。
3月末まで山行は無理かなと、ほとんど諦めかけていたのですが、忙中閑あり。
朝な夕なに慣れ親しんでいるこの山に、ちょっと散歩のつもりで。
雲一つない登山日和。山中、サプライズもあって、感謝、感謝のひと時でした。
瑞峰平に車をおき、いざ。
ほどなく、石切り場への分岐。山頂が見えて来ました。
移ヶ岳を頂きました。
心の中のごちゃごちゃが、み~んな吸い取られ、天衷にそまります。
頭のなかは空っぽ。呆けて、眺覧、周覧のひと時。
鎌倉岳。
大滝根山。
高柴山~黒石山~鞍掛山。そして片曽根山。
那須連山。
二岐山と郡山の市街。
大磐梯と櫛ヶ峰。天狗岩も。
安達太良連峰、和尚山。
船明神、安達太良本峰、矢筈森、鉄山・・・
そして、箕輪山。
一切経山、手前に吾妻小富士。
陽精の頌に唱を合せる峰々。
総身に特別のエ~ルを頂戴。3月の用務要用の数多、乗り切れそうです!
片曽根山に雍られて、田村市船引の市街。帰るとしますか。
すると、すたこら上って来られる方が。何とKさんではありませんか。
いやぁ、お久しぶり。一体、何年振りやら。 歓談、四方山話。
悲しいかな、その中に、存じ上げている方の訃報・・・・
山での再会を期して、それぞれの上り下りへ。
ひとの生き死に、それにしても、何故・・・・・・・
「生命の創造者、生命の与え手、またその主であり給う神は、
恵み深い神であるという認識に立つときにのみ、自殺はいけないということを、
確実に、そして疑問の余地なく基礎づけることができる。・・・
神が主権者なのであって、君がそうなのではない。
君の生命に対して責任を担い給うのは彼であって、君自身ではない。
彼がみずから意志し給うたことをなすのであり、
君がみずから欲しなければならぬと思い込んでいる事を、神がなすのではない。
彼がその御心を目標に至らしめるのであって、
しかもこれは、君の成功や失敗に左右されることはないのである。
彼が君を義とし、きよめ、栄光あらしめ給う。
そのようなことを、彼は君にせよと要求しておられるのではない。
君から要求されていることは、ただ神の御手にそれを委ねること、
彼がみずから与え給う恩恵を受け入れることによって、彼に服従すること、
だけである。
そうすれば、君はいかなる状況においても、決してひとりぼっちであることはない。
君は自分が四方から包まれているのを見出すであろう。
そして君の人生が、たとえどんなに挫折し、不幸であろうとも、
またどんなに無用で余計な存在のように思われようとも、
君は決して自己に絶望することはないであろう。
君の生命は神のものなのだ。だから、神のすべての天使が君と共にあり、
赦しと助けと希望とが、尽きることなく、無限に、
決して挫折することなきものとして、君のために備えられている。
だからこそ君は、たとえ自分の人生がいかに成り行こうとも、
自分の生命を投げ捨てようなどと、決して考えることができなくなるのである。
君は生きることを許されているのであって、生きなければならないというのではない。
・・・・・・・・・・・・・・・」
( Kirchliche Dogmatik Ⅳ )
天に在る、Sさんの霊よ、安かれ。
瑞峰平には、のどかな時間。
無事の下山、
朗耀の山路に
感謝、感謝。
fin