ふと見遣ると、庭の片隅に福寿草の花が。
うれしいな。今年も変わらぬ真心をもって咲いてくれました。
「福寿草(さちぐさ)を縁のひかりに置かしめてわが見つるとき心は和ぎぬ」
とは、斎藤茂吉。
この花を「さちぐさ」と詠んで、心地良いひびき。
かつて、内村鑑三は、
「人は誰も花を好む。花を好まない者は人にして人でない。
花は天然の言辞である。花によりてわれらは天然の心を解することが出来る。
そうしてわれら人類も天然の一部であるから、われらの心も花において顕れる。
花は無言の言辞である。
天使の国においては多分花をもって思想の交換をなしているであろう。
言語は銀であって、沈黙は金であると言えば、花は沈黙の言語、
すなわち金の言語であるであろう。
余も花を愛する。余も花をもって余の心のすべての思念を語ることが出来る。
希望の花もあれば失望の花もある。歓喜の花もあれば悲哀の花もある。
傲慢の花もあれば謙遜の花もある。
人の心のさまざまなるように花の色香もいろいろである。
ゆえに人の心はその愛する友を見て知ることが出来るように、
そのひととなりはほぼその愛する花によりて見分くることが出来る」
と綴りました。
この花を愛する人のひととなりは・・・ imagine、please.