あるく

~山の恵みの備忘録~

言葉の糧~内村鑑三

内村鑑三(1861-1930)~キリスト教独立伝道者。評論家。札幌農学校出身。教会的キリスト教に対して無教会主義を唱えた。教育勅語天皇の署名への礼拝を拒む不敬事件を起こし、また非戦論を唱道。雑誌『聖書の研究』を創刊。

著書は、『内村鑑三全集(全40巻)』(岩波書店

 

 

『愛の世界』

 神に愛せらるるに至るが人生第一義の目的なり。この目的に吾人を達せしめんがために神を信じて世に憎まるるの必要生じ義を守り人に嘲らけらるるの必要起り、善を為してかえって悪人視せらるるの必要は出でしなり。世に患苦と称えらるるものはみな吾人をして神に愛せられしめんがためにあるものなり。ゆえに吾人は神は愛なりと言い、宇宙は愛の機関なりと唱うるに躊躇せざるなり

 

『事業と成功』

 成る事は成る時に至れば成るなり。急ぐべからず、怕るべからず。ただ神を信じて俟てば足る。エホバを俟ち望め、しからば彼汝を救わん(箴言20‐22)。

 成功は事の成否にあらず、信仰の貫徹なり。実に神を俟ち望む(信ずる)者は愧じしめられず(詩篇25‐3)。終りまで忍ぶ者は救わるべし(マタイ伝10‐22)。わが最大の事業は最終までわが信仰を保全することなり。

 

『独特の生涯』

 われに独特の歓喜あり。ゆえに神はわれに独特の患難を下し給うなり。人はわれの歓喜を知る能わず。ゆえにわれの悲痛をも知る能わざるなり。わが生涯の独特なるは神がわれを特別に愛し給うがゆえなるべし。ゆえにわれは喊んで言わん「来れ独特の患難よ、われは歓んで汝を迎えん」と。

 

『勝利の生涯』

 患難を避けんとするなかれ。これに勝たんとせよ。独りみずからそれに勝たんとするなかれ、神によりて勝たんとせよ。神が患難を下し給うはわれらによりてその能力と恩恵とを顕さんためなり。

 

『余の救い』

 余は好んで救われたのではない。余は余の意に逆らって救われたのである。余は現世を愛した。しかるに神は現世における余のすべての企図を破棄し給いて余をして来世を望まざるを得ざらしめ給うた。余は人に愛せられんことを希うた。しかるに神は多くの敵人を余に送って、余をして人類について失望せしめて、神に頼らざるを得ざらしめ給うた。もし余の生涯が余の望みし通りのものであったならば、余は今も神もなき来世もなき、普通の俗人であったであろう。余は神に余儀なくせられて神の救済に与かったものである。ゆえに余は余の救われしことについて何の誇るところのない者である。

 

『静謐の所在』

 静謐は天然にあり。神の造りし天然にあり。静謐は聖書にあり。神の伝えし聖書にあり。一輪のオダマキの露に浸されてその首を低るるあれば、一節の聖語のわが心中の苦悶を宥むるあり。怒濤四辺に暴るる時に、われは草花に慰癒を求め、古き聖書に世の供し得ざる安静を探る。

 

『恩恵と責任』

 神の恩恵は責任に伴うて来る。重き責任に大なる恩恵伴ない、軽き責任に小なる恩恵伴なう。大なる恩恵に接せんとするや、大なる責任を担えよ。責任を免れて恩恵に接せんとするは神を欺かんとするなり。みずから欺くなかれ。神は漫るべきものにあらず。いかなる智者といえども責任を棄斥して神より恩恵を窃取する能わず。

 

『静かなる信仰』 

 神は平安の神なり(ロマ書15‐33)。キリストは平安の主なり(テサロニケ後3‐16)。しこうして福音は平安の福音なり(ロマ書10‐15)。ゆえにこれを信ずる者は平安の人たらざるべからず。信仰もまた大河のごとく静かなるを要す。声を潜めて粛々として神の懐に臨むものならざるべからず。かの街に絶叫し、俗衆の喝采を博するを得て喜ぶがごときは平安の神を信ずるの途にあらず。紅葉森を彩る所に、または秋水碧なる辺に、吾人は静かに真正の信仰復興を計るべきなり。

 

『事業の選択』

 事業の選択について苦慮する人多し。しかれどもこれ無益の苦慮たるなり。われらは何の事業に従事するも可なり。われらはただキリストを信ずれば足る。事業はわれらを潔めず、キリストのみよくわれらを潔め給う。今や聖潔の事業の世にはなはだ稀なる時に際して、われらは清浄を事業において求むることなく、これをキリストにおいて求め、彼によりてわれらが従事する事業を潔むべきなり。

 

『信仰と愛』

 信仰は熱しやすし、また狂しやすし。信仰は時には怒り、時には咒い、時には殺す。信仰は大くの不義を攘えり、また多くの義人を殺せり。信仰によりて人は直ちに神に達する能わざるなり。

 信仰は愛に終らざるべからず。信仰は愛に到るの路にして、愛は神に達するの道なり。愛は信仰に始まらざるべからず。しかれども信仰は直ちに人を神に導かず。信仰の激湍まず愛の緩流と化するにあらざれば救済の大洋に入る能わず。

 Excelsior! Excelsior! 昇らんかな、昇らんかな。智識より信仰へと、信仰より愛へと。さらに高きに向って昇らんかな。愛なき者は神を識らず。神はすなわち愛なればなり(ヨハネ1書4‐8)。われらは信仰を眼下に瞰て、愛なる神を目指して昇らんかな。

 

『最も難き事』

 最も難きことは起きて働くことにあらず。最も難きことは静かに主の時と命とを待つことなり。あるいは1年、あるいは3年、あるいは10年、あるいは20年、われら各自の信仰の量に循い、黙して主の命を待つことなり。詩人ミルトンいわく「単に待つ者もまた善く神に奉仕す」と。従順なる待命は父なる神の最も喜び給うところなり。われらは時には大事を為さんと欲せずして無為に安んじてわれらの神を喜ばし奉るべきなり。

 

『勝利の生涯』

 世を遁れんとするなかれ。世に勝つべし。境遇の改まらんことを祈るなかれ。心の改まらんことを祈るべし。苦痛の去らんことを願うなかれ。恩恵の増さんことを願うべし。外に富みかつ栄えんと欲するなかれ。衷に喜びかつ楽しむ者となるべし。

 

『名実の差別』

 余輩は名に就いて争わず、実について争う。「仏陀」なりとて斥けず、「キリスト」なりとて迎えず。余輩は万物の中に充満する愛の心を遵奉す。神は愛なり。愛なき者は神を識らず。余輩もまたいささか愛の何たるかを知る。ゆえに愛の在るところに余輩の神を認め、その名の異同のゆえをもって取捨向背を決せざるなり。

 

『単独の歓喜

 独り足りて独り喜び、独り喜びて到る処に歓喜の香を放つ。星のごとく、花のごとく、識認を要せず、奨励を要せず。独り輝いて独り香わし。詩人ホイットマンいわく、

「われわが有るままに存在す、それにて足る。

もし世に何人もわれを認むるなきも

われは満足して独り座す。

もし衆人と各人とがわれを認むるとも

われは満足して独り座す」。

と。しこうしてキリストに在りてわれもまたかく有り得るを感謝す。

 

『生涯の実験』

 余の教師は余に教えていえり(彼らはおもに米国人なりし)、汝もし善きキリスト信者たらんと欲せば多く善を為すべしと。余は彼らの教えに従い、国に対し、社会に対し、人に対して出来得る限り善を為さんとせり。しかれども能わざりき。余の企図はすべて失敗に終り、余は人をもおのれをも満足する能わざりき。

 余は失望せり。ひとり密かに思えり、余は神に愛せられざるならん、ゆえに余は善を為す能わざるならんと。ここにおいてか余は神を恨み、彼を疑うに至れり。

 ある時、独り小川の辺を徐歩せし時、静かなる声は余に告げていえり。汝、わがために、善を為さんと欲せしがゆえに誤れり、われが汝のために為せし善を受けよ、われは汝に善を為されんと欲するよりも汝に善を為さんと欲すと。

 余はこの声を聞きて大なる平和余の心に莅みたり。余は神を課工者(taskmaster)*と解して彼を誤解せり。神は父なり。彼を愛するはまず彼に愛せらるることなり。善を為せよと言いて余に迫りし余の教師らはいまだ神の何たるかを知らざりしなり。

 

神に忿怒なきの確証』

 余がキリストを信ずる前に余に忿怒があった。余は余に侮辱を加えし人をどうしても赦すことが出来なかった。余は彼に対して怨恨を懐き、数年を経るもこれをはらすことが出来なかった。

 しかるにキリストを信じてより以来、忿怒の情はだんだんと薄らいで来て、今これを永く懐かんと欲するも得ない。余は今怒ることあるもこれ一時の情に過ぎない。これ余の生まれつきの性の為すところであって余の新しき人の為すところではない。キリストに在る余は怒らんと欲するも能わない。赦さざらんと欲するも得ない。宥恕と赦免とは余の本性となりつつある。

 罪に生まれし余ですらそうなったとならば、まして余をしてかく為らしめ給いし神に忿怒のありようはずがない。余があえて為し得ない事を神が為し給うはずがない。余は自己の今日に顧みて神に忿怒なるものの無いことを確信する。余は余の心の衷に神の無窮の愛の確証を蔵す者である(マタイ伝7‐11)。

 

『わが欲望』

 余輩はキリスト信者にあらざるべし。またキリスト信者たらんと欲せず。余輩はただキリストのごとく愛せんと欲す。彼のごとく謙遜ならんと欲す。彼のごとく人の悪を謀らずしてその善を思わんと欲す。余輩はただこの意味においてのみキリスト信者たらんと欲す。その他の意味においては余輩は異端、また不信者、または無神論者たるを辞せず。余輩が聖書を講ずる理由もまたイエスのごとくならんと欲するより他にあらざるなり。

 

『知らず、知る』

 われはいかにしてわが事業を継続し得るやを知らず。われはいかにしてわが子女を教育し得るやを知らず。われはいかにしてわが老後を養い得るやを知らず。しかれども知る、わが全生涯の彼の恩恵の中にあることを。万物ことごとく働きてわがために益をなすことを。われとわが愛する者との永久に彼の記憶に存することを。しこうしてわれはかく知るがゆえにわが将来について知らずといえども悲しまず。万事を彼に委ねまつりて福祉をのみ期待しつつ働くなり。

 

『迷路に立ちての祈禱』

 神様、私が為さんと欲する事は成りません。また他人が私をもって為さんと欲することも成りません、ただ貴神が私をもって為さんと欲し給う事のみが成るのであります。神様、ドウゾ貴神が私をもって何を為さんと欲し給うか、その事を教えて下さい。ソウしてその事の私に解った以上は私が私に力の有ると無いとを顧みることなく、また他人に何の遠慮することなく、ただ大胆にその事に従事することの出来るように私を援けて下さい。アーメン。

 

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「われは善人なるか、または悪人なるか、われは知らず、われはただイエスを信ず。われは善事をなしつつあるか、または悪事をなしつつあるか、われは知らず、われはただイエスを信ず。われは天国に入り得る者なるか、または地獄に落つべき者なるか、われは知らず、われはただイエスを信ず。われはイエスを信ず。しかり、ただイエスを信ず。天の高きに上げらるるも、あるいは陰府の低きに下げらるるも、われはただイエスを信ず。」

 

 

「人類のためにつくさんと欲して、世に交際を求むるの必要は一つもない。われらは単に独りありて人類のためにつくすことができる。人は何人も人類の一部分である。ゆえに己れにつくして人類のためにつくすことができる。ひとり真理を発見することができる。独り神と接することができる。独り霊性を磨きて完成の域にむかって進むことができる。われらは人類のよき標本として己れを提供することができる。単独は決して無為の境遇ではない。」

 

 

「最も偉大なる事は人に勝つ事にあらず、人に負ける事なり、彼にわが場所を譲る事なり、その下に立つ事なり、歓んでその侮辱を受くる事なり、唾せられて十字架に釘けらるる事なり。かく為しかく為されてわれは始めて神の心を知るを得るなり。実に高き者は低くせられ、低き者は高くせらる。われら神に高くせられんと欲すれば人に低くせられざるべからざるなり。」

 

 

「『歩む』とは『静かに歩む』の意である。飛ぶにあらず、走るにあらず、歩むのである。雄飛というがごとき、疾走というがごとき、絶叫というがごときことをなさずして、忍耐をもって神に依り頼み、その命にしたがって静かに日々の生涯を送ることである。あえて大事業を成さんとせず、大伝道を試みんとせず、大奇跡を行わんとせず、ただ神の命これ重んじ、彼の言これしたがい、神を信ずるこれ事業なりと信じて、無為に類する生涯を送ることである。信仰の生涯の大部分は忍耐である、静粛である、待望である。また神より何物をも受くることなきも、かれご自身を賜わりしがゆえに、その他を要求せざる生涯である。」