あるく

~山の恵みの備忘録~

まだ、戦後。


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 8月15日は、『終戦』記念日。「戦没者を追悼し平和を祈念する日」です。
 恒例の『全国戦没者追悼式』が執り行われ、そこで語られた明仁天皇と安倍首相の言葉が新聞に掲載されましたので、私は、それらをポエトリーとして、詩的表白として読ませていただきました。
 共通する言辞は多くありましたが、一方にあって他方にはなかった言葉の一つひとつに、思いを至さずには居れませんでした。
 明仁天皇の言葉は、「かけがえのない命を失った数多くの人々と遺族を思う」→「深い悲しみ」→「深い反省」→「苦難」をとおしての「平和と繁栄」→「世界の平和」を祈る、という、天皇家に生まれ、「象徴」を生きることを余儀なくされた一人の人間としての衷情が、切々と、滲むものでした。
 他方、安倍首相は、「今日の平和と繁栄」→「戦没者の皆様の尊い犠牲」→「敬意と感謝」→「平和を重んじ」「歴史と謙虚に向き合い」→「さまざまな課題に真摯に取り組む」とつなぎ、→「今を生きる世代、明日を生きる世代のために、国の未来を切り開」くと、切り結びました。
 彼の「成長」崇拝、また国会での言動をつぶさにすれば、その「謙虚」、また「真摯」も、その如何は、透けて見えてしまいます。「反省」が何だというのか、「平和と繁栄」のためには?信義を踏みにじろうが、原発事故だろうが、異常気象だろうが、「犠牲」が尊いのだという「衷情」が見え隠れしています。

『子曰わく、中庸の徳為るや、其れ至れるかな。民鮮きこと久し』
とは、孔子の言葉。
しばらく、吉川幸次郎の「臆説」に聴けば、―
「中とは黄金律のように、もののあるべき道理として、最上のものであるが、最上の道理は、つねにものの中央にある、と考えられるところから、中と呼ばれるのであり、また、庸とは、常であって、偏頗でないもの、奇僻でないもの、そうしてそれこそやはり最上の道理であることを、意味しよう。要するに中庸とは、もっともすぐれた常識、を意味するというのが、私の感じである」。
「中庸の、人間の道徳としての価値は、至上のものである。しかるに、その能力をもつ人間が、鮮(とぼ)しくなってから、ずいぶんの時間を経た」
と、孔子は慨歎したのでした。

 明仁天皇と安倍首相、
この二人の言葉の「ズレ」、その重さをはかる「常識」を培い、大切にせよ、
それを持ち続けよと、私の「お山」は誡めています。




(2018/08/16  記す)