『その3』からの続きです。
黙想、大日岳。
語られざる言葉を、お山は蔽う。
また、『歎異抄』には、
「善悪のふたつ、惣じてもって存知せざるなり。・・・
煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、
みなもってそらごと、たわごと、まことあることなきに、
ただ、念仏のみぞまことにておはします」
と。
孔子は人間の過失に範疇をたて、
愛のためにあやまちをおかす君子と、
残忍のためにあやまちをおかす小人とを分けたが、
「仁を知る」に止まった。
親鸞は
「なにが善であり悪であるかというようなことは
おおよそ私の存知しないこと」とし、
「すべてのことがみなそらごと、たわごとで、
真実あることなどないこの世界で、ただ念仏だけが
まことである」として、
その帰趨を、念仏=祈りにおいた。
そして、新約の主人公は、
安息日の禁を犯して手のなえた人を癒すに際し、
「あなたがたに尋ねるが、
安息日に許されているのは
善を行なうことか、悪を行なうことか、
また、
命を救うことか、滅ぼすことか」
と、語られた。
「人の子は安息日の主人である」
と。
敵意や偽り、過ちや悪しきの横行するこの世界。
それぞれはどのような「祈り」に由っているのか。
命を救おうとしてか、滅ぼそうとしてか、…
善か悪かは
其処で訣れるのだと、
生命の山は語っている。
やさしく頬をなでる風。
ゆったりと飯豊の世界に沐浴ゆあみします。
去りがたいですが、
そろそろ雪を採り、小屋に戻りましょう。
水を作って、おさんどん。お腹を満たさねば。
よい時間を、
ありがとうございました。
5月5日、朝朗。
主稜線にガスを覚悟していましたが、幸いにも雲は高層。
朝焼けの照りこそ遮られましたが、眺望は申し分ありません。
でも降雨は避けられぬ様です。
此処で存分に眺望を愉しみ、あとはすたこら
下山するとしましょう。