あるく

~山の恵みの備忘録~

三国岳/慈祥(後篇) 2022年11月12日

『三国岳/慈祥(前篇)』からの、続きです。

 

写真を撮って頂いた方と、しばし歓談、四方山話。

今日は本山小屋で泊りだそうな、う、う、うらやましい。

 

あらためて、大日岳と、かろうじての飯豊本山を背にパチリ。

 

 

辞して、その先、お気に入りの撮影ポイントへ。

 

 

此処からだと、すっきりします。

 

 

しばし眺覧、周覧。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お山を仰ぎ瞻て、黙想。

 

 

 

お山から、"my friend"「友よ」の呼びかけを聴き、

そのたたずまいに、いつくしみを覚えるのはどうしてでしょう・・・

 

「心は理性のまったく知らない理性をもっている」とはパスカルの言。

同様に、山には人間の知らない理性があると言ったら𠮟られるでしょうか。

さて、「知るためには対象に適した器官を必要とする」とはプロティノス

さしずめ、飯豊を知るには鋼のような肉体が必須となるのでしょうが、

私は生憎の軟弱者、いつも、ハァハァゼェゼェ、知る可くもありません。

ただ、

「知られるべき対象が知るものの内部にあるかぎりにおいて知識は生まれる」

との先覚の言葉があります。さらに、

「感覚に触れる事物(石・植物・動物)の存在、外観と変化について

われわれに教えるのは経験であって啓示ではない。

一方、こうした事物が何を意味するのか、なにでありうるのか、

そしておそらくなにであるべきなのかをわれわれに教えるのは

啓示であって経験ではない」

との言葉も。

そう、作者による啓示。

お山と私とは作者によって連帯しているのですから。

(作者であられる方を、イエス親しく「Abba(父よ)」とお呼びになった)

 

 

 

遠く、吾妻、安達太良、磐梯の峰々から、「然り、友よ」の響。

 

 

先程の方を見送って・・・

 

 

三国小屋へと戻りました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

バシャバシャと、慣れないスマホでの撮影を終え、

さてと、ラーメン屋開店?です。

カップ麵の食べ頃を待っていると、剣ヶ峰からお一人来頂。

何と、飯豊保全大魔神?リョウ君でした。小屋の用足しで、此処まで。

しばし歓談、四方山話。

 

 

心も体も、大満足。

そろそろ、おいとまするとしましょう。

 

 

お山の祈りは、"Grace be with you"。

 

 

 

後は、・・・

 

 

陽精の頌、その祝福のもと・・・

 

 

充満する山輝、山精を総身にいただいて・・・

 

 

のんびり、まったり、漫歩。

 

 

ただ、感恩をむねに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(此処から鏡山まで30分ぐらい?寄るつもりでしたが、止めておきます)

 

 

 

 

 

 

 

無事の下山、

慈祥の山路に

感謝、感謝、感謝。

 

fin