今日(3/4)は、二ツ箭山へ。
春暖の候。朗天に恵まれ、
暢びやかにお山を愉しむことが許されました。
が、まわりはかすみがち。花粉の飛散?
春に緩むは、人心ばかりではありません。
杉花粉様におかれましてもご同様。
くしゃみ連発、目はジュクジュク、
ついにと言うか、とうとう、…
辛抱・堅忍の季節到来となりました。
笑んで迎えてくれた梅の花。
水に礼すれば、その謙廉に合せられます。
水の響に耳清ませながら。
〆張り場。
ここで沢にわかれ、山脊へ。
岩場に直下。
"天を仰げ、そして天から生きよ"
と呼ばわります。
あの窓へ。
男岩のエ~ルがうれしい。
女岩を頂けば、陽精の燦々。
天然の頌歌につつまれ、しばしたたずみます。
下界でかまびすしい、『M学園』。――
「あらゆる宣伝事業には
人間性に対するはなはなだしい軽蔑が存在する。
愛に対する大きい侮辱が存在する。
なぜなら、私を説得しようとする者は、
自分が他人からされたくないようなことを、
必ずわたしにするようになるからである。
彼はわたしを、だまさなければならない人間として扱う。
彼はいろんな方法と策略のおそろしい混合物を用い、
感情と論理を組合せ、幻影をあやつり、
約束と脅かしを惜しみなくふりかけ、
野性と高貴な理想をこもごも刺激する」
とは、ヴァレリーの言葉。
そして、
「雄弁家や、その他、
人々を自分の味方につけようとする人々が、
どのようなふるまいをするか見たまえ。
そもそも雄弁とは何であろうか?
それ自体としては全く無意味な命題に生命力を与えるために、
熱とイメージとたとえとリズムと壮大さを利用する技術である」
とも。
私はヴァレリーほどシニカルな人間ではありません。
ただ、わたしたちが、今、現に生きている世界をあきらかにし、
理解させてくれるものが「教育」だとするなら、
かの「教育者」は、自身の「情熱」とともに、同様に、
この国の宰相夫妻の「情熱」の奈辺をも教授してくれた様な、
そんな気がします。
"然うだね"と、月山。
さて、テラスへ。
今日も常連さんたちでにぎわいます。
方位盤に陣取る、S藤さん。
ベンチには、igaguriさん、Kさん、Y田さん、
そしてnakajimaさんの姿が。
O内さんから「吟醸酒」をわたされ、
ニンマリのnakajimaさん。
陽精の慈愛にまどろみ…
歓談、四方山話。
さて、たっぷりといい時間を過ごせました。
帰りは沢コースへ。
修験台から"夫婦岩"。睦まじい二重唱。
沢に降り起ち、水の精にご挨拶。
細き声に耳澄ませます。
渓にはお山の響。
水面に踊る樹々と空。
水の翔踊に、光が頌を副えています。
水は光と遊びたいのです。
水の祈りは、…
"Grace be with you".
無事の下山、
和春の山路に
感謝、感謝。
Fin