*三谷隆正(1889~1944);教育者、哲学者。内村鑑三に師事し、入信。旧制六高、一高等で「法制」、「ドイツ語」を教えた。著書は『幸福論』(岩波文庫)など。南原繁編による『三谷隆正全集(全五巻)』(岩波書店)がある。
「多くの人が愛はひとえに感情の問題だと解釈した。
そうしてただ単にやさしくあり、涙もろくさえあれば、
それで愛は成るものであるかに考えた。
秋深き夜、細りゆく虫の声を聞いて、虫のために泣き、
春晩き日、あえなく散りゆく花をいたんで、その短命を歎き、
弱き人の大なる悲しみにあるを見ては、ただただ涙を分かたんとのみあせる。
そういう涙もろさ、そういうふうに感傷的にして繊細なる神経の持主であること、
それが愛だと思っている。
不幸にして多くのキリスト者が、イエスの教えた愛の意味をそういうふうに解釈した。
もしかくのごときものが愛ならば、世に愛ほど無力なものはない。
ヨハネの定義したる神がかくのごとき愛であるならば、
悪魔の方がはるかに雄偉である。
かかる愛が人に何の慰めとまた力とを与えるか。
愛の根柢が好悪の感情に在ると思うくらい怖るべき過誤はすくない。
愛の根本は棄私である。敢て冒して一己をすてることである。
敢為であり、断行であり、冒険である。
愛への決心、それが愛の根底である。
愛への冒険、それが愛の実現の第一歩である。
故に愛の出発は感情になくして、むしろ意志にある。その決断にある。
だから愛は道徳でありうる。
これに反して、もし愛が単なる好悪の問題であるならば、
愛において吾等は必然なる自然律のもとに、
純粋に受動的なる立場を持するものにすぎない。
然らば愛は心理学上の問題になりうるけれども、倫理学上の問題にはなりえない。
好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、これをどうともしようがない。
そこには義務もなければ責任もない。
まことに浮草の水に漂うがごときが愛である。
看よ、かくのごとくに愛を解し、殊にかくのごとき恋愛観を抱いて、
肆なる感情の享楽を追いつつあるもののいかに多き。
そういう『愛』が人にもたらすところのものは何であるか。
相互の醜悪なる欲望の暴露と、そのエゴの競合以外の何であるか。
かくして相互が他の我執にあいそをつかさざれば、それ以上の僥倖はない。
好きなことそのことが愛ではない。
好きとは自己の要求の充さるることに伴う満足の情であって、
それ自身道徳的には何の意味も持たない。
しかるに愛とは自己の要求をすてて、他の要求を充たそうとすることである。
事後の快感でなくして、事前の覚悟である。
だから臆病者は愛を能くしない。惰けるものにも愛は成就しない。
断じて起つの勇気あるもののみ、能く愛の至宝にあづかりうる。」
「自分の生命をもってする愛の営み、
その愛を通して、真実の愛の強さを通して、
われわれは神の愛を少しく彷彿せしめることができる。
最も愛に富む者は最も人生のリアリティに触れるものであり、
又最も神のリアリティに触れるものである。」
「・・・たとえば自然を観よ、何という調和でしょう。
そのいとも小さき部分が、そのいとも大なる部分と調和して、
いかに小さきに拘わらず大きな役目を果たしていることでしょう。
そこには何ひとつ無意味また無益とみゆるものがありません。
過去私は満地の雪をみて考えました。・・・雪が白いのは冬を明るくする為だと。
この私の想いが正しいかどうかは分かりません。
しかし疑いのないことは、
神の在し給うかぎり、而うしてその神が愛にして全智なる神であり給う限り、
野末の雑草を覆う雪一片の中にも、
何か深い意味がこめられてあるに相違ないことであります。
同じように人間の一生においても、
そこにこめられたる何かしら深い神の聖意図があるに相違ありません。
私たち一人一人が何かしら神の御器として役立つに相違ありません。
そうして恐らくは、我ら自身がみずからを神の器として意識していないような時、
しかし謙遜にして真摯である時、
神は我らにおいてもっとも純真な神の聖器を見出し給うのであろうと考えます。
なぜなれば、そういう時こそ我らは真個に謙虚であり、
謙虚であるだけ、それだけ神の聖器たるに適しているのでありましょうから。
大能の神は我らを、我らの知らざる間に用い給うて、
我らの知らざる聖業に参ぜしめられて居るに相違ありません。
ゆえに我らが終に聖なる審判の台前に立つとき、
おそらくは我らの罪深き弱さを以てしてなお、我らが驚くような重大なる役割を、
我らみずから演じておりしことを見出さしめらるるのでありましょう。
そのとき我らは心より神の深き智慧を讃美し、
ほまれを神御自身にのみ帰して、悦びおどることでありましょう。
なぜならば、神は我らの知らざる間に我らを用い給うて、
いみじくも大なるわざを成しとげ給いつつあったのでありますから。
これが真個の成功であります。
人生これ以上の立身出世はあり得ません。」
「人知れず痛苦と寂寞を忍んで、苦難の半生を健闘し続けるだけで、
深い意味と価値があるのです。
たとえ人目をそばだたしめるような、著しい業績は残さなくても、
永遠の相においてこれを眺め、神の眼に照覧される時、
これだけで絶対の価値を持つ人生であり、事業であります。」
具体的な復活を強く主張した。
肉体は死んでも霊魂は死なず、というような、漠然としたものではない。
パウロの復活論の重点は、
われわれの個性的な生命はこの世限りで終わるものではない。
死の彼方の生活には、霊にふさわしい霊の体があるのだ、
という点にある。
霊のみの復活というような、抽象的な考えとは違う。
我々の経験的世界においては、個性の源は身体である。
霊魂にははっきりとした個性があるのだ。
生きているという事は、我々の個性としての生活があり、
従ってまた個性としての責任がつづくことである。
個性的生活の終わりは無に帰するのではなく、
審きを受けなければならない。
滅びに入るか、あるいは神の嘉賞を受けて天国に入るか。
責任は何処までも消えない。
天国でも地獄でもない、無に帰する、
というようなことは、絶対にない。
そしてこのように、個性ある生命を滅ぼさないということが、
神は愛なりということだと思う。」