あるく

~山の恵みの備忘録~

移ヶ岳/信郷 2018年3月28日


 今日(3/28)は、わが町の、移ヶ岳へ。

 先の週は土日に用事が入り、派生して月曜日まで、山は「×」。――
 あれよと、次なる土日にも所用、山行に赤信号が点ってしまいました。
 これはもう何処でも行けるときに行かなくちゃと、足が責っ付きます。
 移ヶ岳、~朝な夕なに眺めている山が、「たまには来い」と。
 数えてみたら、実に9年振りでした。


 (参考タイム;瑞峰平駐車場発9:05~9:37着『移ヶ岳山頂』発10:15~10:46瑞峰平駐車場着)

 道の右折を一本しくじったのは、ご愛敬?(笑)
 標高700Mほどに位置する瑞峰平に到着。
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 安達太良の峰々、高山、東吾妻、一切経が頌います。
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 昔日の作業道に客となります。
 佳い日和なれど、花粉症で、ヘックション、はっくしょん、ふわっくしょん。
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 かつて、石の切り出しで、車が往き来した道。
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 分岐から、山頂へ。
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 標高944M。移ヶ岳を頂きました。
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 山頂に起ち、眺覧、周覧のひと時。
 南には片曽根山に擁かれた田村市船引の市街。
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 高柴~黒石~鞍掛の三兄弟。
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 鎌倉岳。
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 日山。
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 口太山。幽かに蔵王
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 安達太良、吾妻、そして幽かに磐梯山
 宙に、山々の頌歌が流れます。
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 そして、陽精には燦歌。

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 どっかと座して、つましく、カップ麺。 
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 蝶と語らい…
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 陽精とむつみます。
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 TVが、国会の「証人喚問」を伝えています。

 "子曰わく、
 人の生くるや直し。罔(あざ)むくものの生くるは、幸いにして免る"
 とは、『論語』にある言葉。
 「人生は真っ直ぐなもの、そうでない人間が生きているのは、偶然の僥倖。
 たまたま罰を免れているに過ぎないのだ」。
 善は必然、悪は偶然という、儒者の何とも楽観的な人間観ではあります。

 吉川幸次郎は記しました、――
 「彼(孔子)は人間のもつ種種の限定を知ると共に、
 いよいよ人間が善意の動物であることを信じた。そう私がここにいうのは、
 たえまない戦争、殺戮、それらに反撥して、そう主張したというのではない。
 そうした悪意の行為、さらに広めていえば人間の負うさまざまの不幸、
 要するに人間のもつ限定のさまざまを考えつづける間に、
 ほかならぬ人間は善意の動物であるということ自身が、
 そうした限定の一つとして、しかもその最も重要な一つとして存在すること、
 従ってそれは人間が存在する限り、
 最も確乎不動のものとして存在するということ、
 それが孔子の思索の一つの到達点であったと、私には思われるのである」。

 うそをついちゃいけない。
 ただ、もしも、うそをついてゆるされることがあるとするなら、それは、
 そのうそによって、より高次の!価値が実現されるときだけです。
 生きるということは、個性としての生活であり、その責任がつづくということ。
 その終わりは無に帰するということはありません、決して。
 Sagawaさん、あなたはいったい何を守りたいのですか?



 黙して、お山が肯います。
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 いい時間に、感謝。


 ちょっと遠回りして、石切り場に降りましょう。
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 振り返って、山頂。
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 石切り場跡に。
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 後は、すたこら。
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 駐車場着。
 線量計の値は「0.136μSv/h」でした。
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 無事の下山、
 信郷の山路に
 感謝。

 Fin