今日(3/28)は、わが町の、移ヶ岳へ。
先の週は土日に用事が入り、派生して月曜日まで、山は「×」。――
あれよと、次なる土日にも所用、山行に赤信号が点ってしまいました。
これはもう何処でも行けるときに行かなくちゃと、足が責っ付きます。
移ヶ岳、~朝な夕なに眺めている山が、「たまには来い」と。
数えてみたら、実に9年振りでした。
(参考タイム;瑞峰平駐車場発9:05~9:37着『移ヶ岳山頂』発10:15~10:46瑞峰平駐車場着)
道の右折を一本しくじったのは、ご愛敬?(笑)
標高700Mほどに位置する瑞峰平に到着。
安達太良の峰々、高山、東吾妻、一切経が頌います。
昔日の作業道に客となります。
佳い日和なれど、花粉症で、ヘックション、はっくしょん、ふわっくしょん。
かつて、石の切り出しで、車が往き来した道。
分岐から、山頂へ。
標高944M。移ヶ岳を頂きました。
山頂に起ち、眺覧、周覧のひと時。
南には片曽根山に擁かれた田村市船引の市街。
高柴~黒石~鞍掛の三兄弟。
大滝根山。
鎌倉岳。
日山。
口太山。幽かに蔵王。
安達太良、吾妻、そして幽かに磐梯山。
宙に、山々の頌歌が流れます。
そして、陽精には燦歌。
どっかと座して、つましく、カップ麺。
蝶と語らい…
陽精とむつみます。
TVが、国会の「証人喚問」を伝えています。
"子曰わく、
人の生くるや直し。罔(あざ)むくものの生くるは、幸いにして免る"
とは、『論語』にある言葉。
「人生は真っ直ぐなもの、そうでない人間が生きているのは、偶然の僥倖。
たまたま罰を免れているに過ぎないのだ」。
善は必然、悪は偶然という、儒者の何とも楽観的な人間観ではあります。
吉川幸次郎は記しました、――
「彼(孔子)は人間のもつ種種の限定を知ると共に、
いよいよ人間が善意の動物であることを信じた。そう私がここにいうのは、
たえまない戦争、殺戮、それらに反撥して、そう主張したというのではない。
そうした悪意の行為、さらに広めていえば人間の負うさまざまの不幸、
要するに人間のもつ限定のさまざまを考えつづける間に、
ほかならぬ人間は善意の動物であるということ自身が、
そうした限定の一つとして、しかもその最も重要な一つとして存在すること、
従ってそれは人間が存在する限り、
最も確乎不動のものとして存在するということ、
それが孔子の思索の一つの到達点であったと、私には思われるのである」。
うそをついちゃいけない。
ただ、もしも、うそをついてゆるされることがあるとするなら、それは、
そのうそによって、より高次の!価値が実現されるときだけです。
生きるということは、個性としての生活であり、その責任がつづくということ。
その終わりは無に帰するということはありません、決して。
Sagawaさん、あなたはいったい何を守りたいのですか?
黙して、お山が肯います。
いい時間に、感謝。
ちょっと遠回りして、石切り場に降りましょう。
振り返って、山頂。
石切り場跡に。
後は、すたこら。
駐車場着。
線量計の値は「0.136μSv/h」でした。
無事の下山、
信郷の山路に
感謝。
Fin