あるく

~山の恵みの備忘録~

黙想

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 「あれ?Mさん?」。御西小屋に向かい、たしかな足取りで、気持の昂ぶりを抑えきれぬかのように歩いて来る一人の女性を見て、思わず私はつぶやいた。しかし、Mさんであるはずはなかった。
 Mさんとは、私が学生の頃教えを受けたT先生のお嬢さんで、大学を卒業後、紆余曲折を経てこの飯豊の山の麓に嫁ぎ、幸せな生活(と私は思っていた)を送っていたのだが、若き日の挫折が病となって彼女を襲い、ついに、この山の滴を集めた小さな川に帰らぬ人となったのだった。しかし、それにしてもよく似ているなぁ。

 

 九月二十X日。この日、私は深夜の一時半に家を発ち、愛車を駆ること四時間有余にして、山形県は小国なる天狗平に到着した。駐車場には既に様々なナンバーの車がひしめき、むんとした山への熱気がたちこめていた。その濃厚な空気に押し出されるかのように早々に身支度を了えた私は、梶川尾根に吸い込まれ、飯豊道に客となった。

 体と心肺とがなごみはじめた頃、先行する二人連れに追いついた。「 やっぱり、日頃の行いですかね 」。この上々の天気に、それぞれ、とびっきりの笑顔がこぼれる。
 この山のたたえる香りが、空気が、私の体からほとばしり出た汗の代償であるかのように滲みてきて、心地をおしあげる。
 滝見場で休息。滝沢には、日にやや陰りながらも、梅花皮大滝が白いしっかりとした実線を峡谷にきざみ、石転び沢には雪渓が、崩壊によって激しく蝕まれながらも、龍のごとくに体をくねらせ、岩床にへばりついていた。
 梶川峰を足下にし、北は杁差岳から、そして遙か日本海に浮かぶ粟島から、余すところなく体いっぱいにエールをうけ、勇躍として主稜線にのった。そこからのパノラマは、その四方からの燦々たる光線の粒子は、やわらかく私をとかし、大空に翔ける鳥へと私をかえた。
 翼を大きく広げた私は、さわやかな風に乗り、北股岳を一気に越え、鞍部にけな気に建つ梅花皮小屋に降り起ち、しばし羽根を休めた。そして大日岳のおおらかな勇姿に鼓舞され、再び飛翔した。
 足は私の心の躍動に響応、これまでなら、この天狗岳を巻く辺りでフラフラなのに、ダイグラ尾根~飯豊本山から御西岳、そして大日岳へと連なるスカイラインが目に入るや小躍りし、この肥えた身体を軽々と草紅葉に浮かぶ御西小屋へと運んでくれた。

 

「 下はダメだよ。上へ行って、上! 」。御西小屋に着くなり、小屋の一階を我が物顔に占拠していたパーティの横柄な一言で、私はヒト科の動物にかえった。「 まぁ、いいか 」と気を取り直し、水を調達すべく小屋を出たそのとき、彼女は現れた。周りの空気の質感が変った。
 この日は、偶然、知人のNが御西小屋に同宿となった。ちゃっかり者の彼は、燃料に窮したパーティから、予備にと所持していたガスのカートリッジとの物々交換でビールのロング缶を2缶せしめてしまった。燃料もろくに持たぬくせに、ビールだけは余るほど持っている人達にも困ったものだが、おかげで思いがけなく、その夜は愉しい酒宴となった。小屋の管理人の怪しげなゴシップから、山での笑うに笑えぬ失敗談と、~悲しい哉、肴は尽きない・・・。それでも、Mさんに似た彼女が、同じ小屋に居るということが、周りの空気を、何かなつかしい、ほのかな香りをたたえるものにしていた。

 

 翌朝、天狗岳へ写真を撮りに行くというNと別れ、私は大日岳を目指し小屋を出た。ヘッドランプを頼りに進むうち、文平ノ池辺りで白々としはじめた。前方に先行者が見てとれた。彼女だった。私は彼女に追いついてしまうことに何故かためらいを覚え、ペースを落とした。すると、彼女は先行する二人ずれに追いつくや立ちどまり、オンベ松尾根を指差しながら何やら話し始めてしまった。如何ともしがたく追いついてしまった私は、仕方なく、挨拶を交わして彼らの前に出た。大日岳の山頂は目の前だった。

 

 大日岳。この山の頂を足下にすることは、私にとって、ひとつの誉れだ。やっとの思いで工面した一泊二日の時間、その全てを費やして此処に立つことが出来たときの達成感は、私はそれをどう表現してよいかわからない。眼前には、朝陽をうけた飯豊の連嶺が、そのすべてが、慈愛を凝縮し、優しく、艶めかしいほどに輝いていた。私は一瞬の至福に浴し、山の生命を押し戴いた。

 

 山頂で一緒になった彼女にショットを頼んで、言葉を交わした。聞けば、昨日川入からの入山し、水場の事情がわからず、水を3リットルもザックに入れて登って来てしまったとはにかみ、今日はこれから杁差小屋まで足を進め、明日大熊尾根を下る予定だと顔を輝かせた。女性の単独行、しかも、普通なら3泊4日を要する飯豊の全山縦走を2泊3日でかけ抜けるという。山歴の厚み、山への熱い想いをひしと感じさせた。
 先を急ぐ彼女を見送り、私は独り山頂に残りMさんのことを思った。

 

 「 生きること 」に、「生きなければならぬ」ことにMさんは「 敗けた 」。でも今こうしてしっかりとした心臓の鼓動に支えられ、惰性で「 生きて 」いる私が「 勝って 」いるなどとどうして言えよう。山は問う。

 どこにでもある挫折、そこらじゅうに転がっている失意や虚空を吹きぬいて、そのどん詰まりに、山は私を呼んだ。それに、私は応えた。私の未熟は幾度となく私を死の淵へと押し出したけれど、山はそれをよしとせず、生命を恵み、僥倖を得た。私にとって山に上ることは、自由への、そして新生へのささやかな祈りだった。

 行為が報いを求める心から解放されるとき、初めてひとは自由になるのだろう。そうであるのなら、日常性とは何と不自由極まりない世界であることよ。Mさんは、何に応えようとし、何に報いを得ようとして、桎梏に足をすくわれたのか。

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この山に臨んで、

ただ仰ぐ。
山はその心を語らない。

厳としてあり、何も語らない。
天地創造の時を刻み、

ただ在り続けることが、その心を顕す。           

~雨ニ打タレ削ラレテ、

雪ニ叩カレ埋モレテ。

風ヲ切リ、雲ヲタナビカセ。

光ヘト容レラレ、草木ニ化エ~

山は語らない、何も。

語らぬことの、何という言葉よ。

この山の信実は、

光線となってこの胸臆をてらし、

この山の謙遜は、

希望となってこの小躯に注がるる

ああ、ここに登山は消滅し、

貧しき土塊の祈りとなった。

山のような人間に成らせ給えと。

 

 御西小屋にもどると、彼女は出発の準備を了え、小屋の外でアンパンをほお張っていた。彼女に、あまり無理をせず、場合によっては、むしろ水の便の良い頼母木小屋に泊まるよう奨めると、「 はい 」。ぺこっとうなずいた。
「 行ってらっしゃい。気をつけて。」
 彼女が出発したあと、私も急ぎ荷をまとめ、下山にかかった。飯豊の山頂に北方の稜線を見つめ、この山に彼女の無事を願った。

 彼女はMさんその人だったのだろう。この出来事は、私に、Mさんの父なるT先生、彼からさずかった嘉信を想い起こさせて止まない。

 私はダイグラ尾根を前に深呼吸をし、静かに足を踏み入れた。ダイグラ尾根は、これまでと変らず優しく私を迎え入れ、そして厳しく遇してくれたのだった。

 

( 2020.12.16;加筆)