あるく

~山の恵みの備忘録~

登山観は問う

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 トムラウシ山の悲劇は記憶に新しい。
 中高年の商業ツアーによる悪天をおしての計画の強行が遭難につながったというのが 大方の指摘である。なるほど、ビジネスとしての「ツアー登山」であり、亡くなられた方が出た以上、「業務上」の「過失致死」に当たるわけで、法律上の「責任」の所在をはっきりさせる上で、こうした判断ミスは重要視される。
 しかし、それは結果論であって、現象論的にはともかく、事柄の本質からすればどうだろうか、すこし違う気もする。
「登山ツアーに参加すれば準備は省けるし、普通の観光旅行のつもりで参加した。トムラウシ山についての予備知識もなかった。」
「ツアー登山は便利なので、防寒対策を自分でしっかりやってない人もいた。」
 マスコミの取材に対する参加者の方の受け答えに、その感を深くする。
こうした「ツアー登山」を主催されたA社、またその企画に参加された「登山者」の方々お一人おひとりの登山観、登山というものへのスタンス、また山という日常とは異なる世界における自己責任といった視点から考えると、問題の根はもっと違うところにあるように思える。
 下界、即ち日常の世界においては、様々な「危険」がそれこそ微に入った「責任」へと転化・分担されているけれども、山という「異」世界においては、いかに「保険」がどうのこうのとは言っても、ちょっとした浮石一つにすら死に至る危険が存在する事を思えば、そこに登るという行為が「ビジネス」の論理や法律上の「責任」観念へと解消しきれないことは明白である。

 登山の本質を考える場合、おおきな天然・自然の直中に遊び、どうすることもできない天候・気候の変動に弄ばれながら、日常と世界を異にする空間において、自己というものを、その恵みを、生と死のはざまにぎりぎりに意識・自覚するという意味を外して云々することは適当でないように私は思う。
 一口に「ツアー登山」と言っても、その意味・カテゴリーは必ずしも明確にされているわけではなく、「観光」登山としか云いようのないものから、実質、講習会と称せられても遜色のない内容をもった「ガイド」登山までがひとくくりにされているのが現状である。
 登山の商業化・そしてそこに派生する様々な問題点、とくに登山観、意識・スタンスの変容は、遭難事故を考える時、重要な意味を有ってくると私は思う。

 「物見遊山」、たしかに登山観のありうべき形のひとつとして・その始めとして、「観光」はある。それは経験によって深められ、成長する。そして、より高く・より困難な山を志向する、その登山は、より高い志に裏打ちされた・より精緻な登山観を要求する。登る者にそれぞれの山のレベルに相応しい登山観が備わっていないとき、遭難の芽は発芽するのだろう。登山の商業化は夢を与えるが、同時に錯覚をももたらし、登る者の登山観を幼稚化し、その成熟を阻害する危険を孕んでいる。長所は短所、短所は長所。その裏返しの真実を見透す自立した人間を、山は求めている。

(亡くなられた方々のご冥福を衷心よりお祈り申し上げます。)

(8/8記)