あるく

~山の恵みの備忘録~

二ツ箭山/諷勉 2017年2月18日

 水の頌は、”Grace be with you”.
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 今日(2/18)は、二ツ箭山へ。

 先の週は、予定した日曜日の前の晩に、まさかまさかの降雪。
 小雪と言えば小雪の類でしたが、起きてみれば、
 道路はツルンツルン、
 意気地のないドライバーは即座に山行を断念いたしました。
 やはり、こざかしく、天気など択ばず、
 行けるときに行くのがいちばんです。


 水に礼すれば、その謙廉に合わせられます。
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 歩一歩、三段滝。
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 水の頌に、耳澄ませながら。
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 〆張り場から山脊へ。
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 岩場に直下。
 
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 "天を仰げ、天から生きよ"と呼ばわる響。
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 男岩と女岩を分つ基部へと上がって、月山。
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 女岩を攀じれば、男岩からのエ~ル。
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 女岩を頂いて眺覧。
 風が遊び、陽精の頌がしずけくながれます。イメージ 10



 うらがなしい風情…。
 
 「魂とは拒否するなにものかである。
 たとえば、
 肉体が震えるとき逃げることを拒否するもの、
 肉体が苛立つとき打つことを拒否するもの、
 肉体が渇くとき飲むことを拒否するもの、
 肉体が欲するとき取ることを拒否するもの、
 肉体が恐れるとき放棄することを拒否するものである。
 従う前に吟味することは知慧である。
 そしてこの拒否する力こそ
 魂である。
 狂人はいささかも拒否する力を持っていない。
 彼はもはや魂を持たないのである。
 人はまた、狂人はもはや意識(良心)持たない、という。
 そしてそれは正しい。
 打つためであろうと、逃げるためであろうと、
 或いは単に喋るためであろうと、
 自分の肉体に完全に譲る人は、
 彼が為すこと、彼が言うことをもはや知らない。
 人は、自己の自己に対する対立によってのみ、
 意識を持つ」
 とは、哲学者アランの言葉。
 そして、
 「広量すなわち大きい魂、卑しい魂というものはない。
 人は魂を欠くに過ぎないのだ。
 この魂という美しい言葉は、
 断じて一つの存在を意味するものではなく、
 いつも一つの行為を意味している」とも。

 であるなら、魂を欠く、もまた
 一つの存在ではなく、一つの行為を意味しています。
 暗殺、テロ、専制
 魂を欠くことが、権力者の条件ではあるまいに…。
 世界中のあちらこちらで魂が喪われていきます。


 それでも陽精は世界を蔽う。
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 さて、岩場のテラスには、――
 常連のS藤さん、Y田さん、そしてKさんのお三方。
 交ぜて頂き、歓談、四方山話。感謝。
 

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 御三方を見送ると、テラスは私だけ。
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 陽射しは雲にとけてやわらか。 
 のんびり、のほほん、
 いつもの倍の時間をかけて、温もります。
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 さて、心身ともにぬくもりました。
 帰りましょう。

 男岩を巻き、往路を復すことに。
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 再び沢へ。今日は水量こそ些めですが、
 水の精は溌剌。
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 翔逸、翔華、翔踊の変化で、
 おしみなく、大きなエ~ルを、この身に注ぎます。
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 下り了えると、陽精が燦々。
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 雲からも、…
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 空からも…
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 そして、梅の花からも、
 透明な力。
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 無事の下山、
 諷勉の山路に
 感謝、感謝。


  Fin