あるく

~山の恵みの備忘録~

中吾妻山/懐信 2016年9月4日

 
 今日(9/4)は、吾妻山へ。
 
 時空を超えた祈願、
 吾妻山神社への参拝を守り続けている篤信のみなさんに同行、
 その登山道の整備を、ささやかなりと、お援けできればと。
 仏の山として、かつて修験の修行の場であった吾妻山、
 その埋もれた歴史が、
 道が繋がることによって、現在し、現前します。
 
 
 
 吾妻山は名の通った山、西も東もにぎわいますが、
 中吾妻はひっそりと静寂を保ちます。
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 今日のメンバーは私を入れて七人、
 いずれも、山を愛し、山に愛でられてきた方々ばかり。
(yosidaさん、yamautiさん、komatuさん、kawasimaさん、
 そしてsaitou翁、takahasiさん)
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 登山口から程なくして、唐松川。
 渉ります。
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 「異界」へ。
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 たたずめば、渓の清澄が沁みてきます。
 
 
 而今の山水は
 古仏の道現成なり
 ともに法位に住して究尽の功徳を成ぜり
 空劫已前の消息なるがゆえに 而今の活計なり
 朕兆未萌の自己なるがゆえに 現成の透脱なり
 山の諸功徳高広なるをもて
 乗雲の道徳 かならず山より通達す
 順風の妙功 さだめて山より透脱するなり」
 とは、道元の言葉。
 (「山水経」/正法眼蔵』)
 
 
 先覚の意訳に借りれば、
 「いま、目のあたりに見る山水には、
 古仏(祖師方)の道(教え)が実現している。
 この山水は山は山として、水は水として、
 ともにその本来の生命のありかたをまっとうし尽している。
 しかもそれは、
 世界が世界として形成される以前のありかたであるから、
 まさに目のあたり見る活きた生命の姿である。
 また、自己が自己として萌さない純粋な自己であるから、
 なにものにもとらわれない自己が、ここにつらぬかれている。
 こうして自己と一体といってよい山の功徳は、
 果てもなく高く広い。
 高くは雲に乗って天空へと昇ってゆく仏道の功徳、
 広くは風にまかせて自在に飛びまわる妙なる功徳。
 このいずれもが、
 かならず山からはこばれ、山からそのままつらぬき、
 もたらされるのである」――
 
 
 
 
 
 いま、目のあたりにする山水は…。
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 「御神木」に注連縄がはられ、いざ。
 私の前はsaitou翁、82歳の矍鑠に畏れながら。
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 スギからカラマツへ、植林帯を辿ります。
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 径は道刈りが能く施されて軽やか、
 賑やかなお喋りが響きます。
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 所々に支障木。
 持参の鋸や鉈で除去しながら進みます。
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 倒木も幹径15~20㎝ぐらいまでなら、伐って除去。
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 ここで、一息。
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 yosidaさんの手で「奥姥神様」は斉えられ、
 赤衣は新たに。
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 さて吾妻山神社まで、あと少し。
 このクラスの倒木はチェーンソーでないと無理、
 敬して潜りましょう。
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 倒木や支障木の処理に、迷い予防の赤テープ、
 伐ったり除けたり、括ったりと、5時間半のアルバイトの末、
 やっと「吾妻山神社」に到着しました。
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 みなさんの手で清掃、斉えられて、注連縄も新たに。
 『奥ノ院吾妻山大権現社』。
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 信心の、形象。
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 吾妻山神社。
 修験者たちのざわめき、――
 
 「日本人にとって山は、神の鎮もる聖地であり、
 そこは安易に踏みこんではならない聖域だった。
 修験道は、
 この山を修行の道場としたのである。
 では日本人にとって神とは何だったのだろうか。
 日本人は山と海の彼方に魂の原郷を思いえがいてきた。
 そこは神が鎮もり、霊魂が鎮もる理想郷であり、
 この世の豊饒はそこからもたらされると考えてきた。
 また、山岳を形成する樹木や湧水地、巨岩は、
 そのことごとくが神の依りつく聖なる存在として認識されてきた。
 そこに神の力がはたらいていると受けとめてきたから、
 神の名を付し、注連縄をめぐらし聖別してもきた。
 ・・・・・
 日本人は山と海という、いわば生命の原郷を聖視することによって、
 死後の行く末に安心を得ようとした。
 来世観といってもいいこの観念は
 『人はどこから来て、どこへ行くのか』という
 根源的な問いにたいする示唆をふくみ、
 日本人の自然観が生んだ壮大な宇宙観といえるだろう。
 こうした観念からも察しがつくように、
 日本人が古代から現代におよんでいだいてきたのは霊魂信仰である。
 つまり山は
 霊魂信仰の聖地であり、神が鎮もる神域そのものであった」
 とは宗教学者、久保田展弘の言。
 
 山に、生命エネルギーの源流を見、
 その本体に『神』を認識してきた日本人。
 日本の宗教史は、
 こうした古くからの山岳信仰に発する修験道が、
 陰陽道、神仙思想、道教密教と融合し、新旧の神の対立を経て、
 深められもし、また変容・変節をも余儀なくされて、
 独特の発展を遂げたことを教えます。
 修験者たちは、
 山の、自然のエネルギーを験(しるし)として修めることで、
 祈願の飛躍、或いは〈救い〉と呼びうべき何かを与えられ、
 人びとにもたらしました。
 
 IT(情報技術)の氾濫、利便の過剰によって脳髄は侵され、
 貪欲が跋扈し、暴力が跳梁する現代世界。
 いのちが危うい今、
 山を愛する者は、山に遊ぶことで、その生命に触れ、
 「豊饒」を超えた、神観の純化、その深化へと促されている
 と考えるのは、不遜に過ぎるでしょうか。――
 
 
 「それは、私たちの記憶が回収できない時間において、
 私たちはその他者に連帯していたからである。
 すなわち、人間はみな神により無から創造されたものとして、
 質料によってではなく、作者によって連帯しているからである」
 と、レヴィナスは言いました。
 
 
 
 
 
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 作業を了え、参拝も済んで、
 記念に一枚。
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 あらら、雨。でも、小雨。
 その先へ、ちょっと足を運んで権現沢
 
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 思い思いに昼餉の準備――。
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 ムシャムシャ、パクパク。お喋りもおかずです。
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 かつて『地獄駈け』と呼ばれた回峰行。
 中津川を遡り、権現沢、そして吾妻山神社へと、
 息急き切る修験者の響が聞こえて来そうです。
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 さやかに水の精、頌歌。
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 各々方、食事が済みました。
 いとまを告げて、帰りましょう。
 
 
 
 忘れ物はないかな?
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 雨はやみました…
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 てくてく、てくてく。
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 『奥姥神様』で、ひと息。
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 森の精のねぎらいと…
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 エ~ルを戴いて。
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 ふっと足元に目を遣れば、精霊の頌歌。
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 讃う、ヒカリゴケ。(私のカメラではこれが精一杯)
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 西日が傾き…
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 樹林に鬱蒼が増して来ましたが…
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 明るいうちに、唐松川へ。
 沢音は讃歌、…
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 ねぎらいの響。
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 登山口に戻って、やれやれ。
 お疲れ様でした。
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 無事の下山、
 山の諸功徳に
 感謝、感謝。
 
 
 
 Fin