今日(8/7)は、
阿武隈高原中部県立自然公園『高柴山』
及び、
堂山王子緑地環境保全地域
を見廻ります。
連日の熱波にダウン寸前でしたが、
高原の涼風、そして猛暑など笑い飛ばす花々の健気に、
生気を取り戻すことができました。
感謝。
いつもの門沢登山口から。
ヤブ化してますね。
朝露次第では、グショグショになるかな。
曇が優勢ですが、時折、木洩れ日。
其処彼処に、ギボウシの頌歌。
白花はめずらしい?
水石。
陽が出張って来ました。木蔭で一息入れましょう。
山頂展望台に到着。
ヤマユリが衛兵を務めます。
まだ雲は優勢。
かすむ移ヶ岳、鎌倉岳。
しばし、周覧。
山頂部を廻ります。
讃う、ナデシコ。
ヤマユリの本懐、
ひとすじの気持が凛々しい。
「散ったお花のたましいは、
み仏さまの花ぞのに、
ひとつ残らずうまれるの。
だって、お花はやさしくて、
おてんとさまが呼ぶときに、
ぱっとひらいて、ほほえんで、
蝶々にあまい蜜をやり、
人にゃ匂いをみなくれて
・・・・・・
風がおいでとよぶときに、
やはりすなおについてゆき、
なきがらさえも、ままごとの
御飯になってくれるから。」
7/30付『毎日新聞』、「余録」氏は
この、金子みすずの『花のたましい』という詩を引いて、
「たましい」という「聖なる力」を喚起し、
衝撃の収まらぬ相模原市の障害者殺傷を、
そのおぞましい悪意を、悲しみました。
「利便」、「快適」を求めてやまない功利の心性は、
「不便」、「不快」を否んでやみません。
心が功利に支配されるとき、人は、
「聖なる力」も「たましい」も感じられなくなり、
暴を産み、生命を毀します…。
「生のないところに、
どうして幸福な生がありえようか」
とは、アウグスティヌスのことば。
「生命」に触れる、「生命」を畏れる、――
それは、根本的な事柄なのだと、そのことに、
あらためて、思いをいたしました。
"然うだ"と、ヤマユリの精。
蜜を求めてじゃれるキアゲハ。
和みます。
一回りし、異状のあるなく、安堵。
日蔭を求めて、展望台の下へ。さわやかに風が吹き渡ります。
湯を沸かし、のんびりとおにぎり、カップ麺。
食べ終わる頃には、
阿武隈の山際が見てとれるようになりました。
移ヶ岳、鎌倉岳…。
桧山、そして大滝根山。
南に日影山、蓬田岳。
溌剌と、空、白い雲。
謳う、陽精。
訪れた家族連れの方と挨拶を交わし、
さて、帰るとしましょう。
ヤマユリにいとま。
大地の心、生命のつながり――。
すたこら、すたこら。
ホトトギスのねぎらい、エ~ルにほっこり。
無事の下山、
花の精の表白に
感謝、感謝。
Fin