雪が解かれて、”逆さ磐梯”。
今日(5/9)は、磐梯山へ。
曇りのち雨の生憎でしたが、
春の謙恭に触れるを得ました。
感謝。
予報はおおらかに”くもり”、でもこれ雨になるだろうなぁ、
と呟きつつも、手には傘じゃなくストック。
積雪期を除いて、この山で手に物を持つことはないのですが、
これから辿るコ~ス、先日、熊の被害が報じられました。
熊さんはカモシカ君と違って、血気盛んです。
素手では応対できませんので、一応”武器”?として。
お山にご挨拶。
新緑が駆け上ります。
タムシバの懇ろな迎候に、感謝。
早発ちは”三文の徳”?
風はまだ起きず、雪を解かれた鏡沼が、磐梯山を映します。
沼の平へ。
足のこともあり、どうしようかと迷いましたが、櫛ヶ峰。
寄りましょう。
春に浮かれて?岩も上土もたちの悪いヤクザ、
私の足取りにいちいちいちゃもんばかり。(笑)
まだよく踏まれておらず、ちょっと難儀でした。
櫛ヶ峰を頂いて、周観のひと時。
お山の響koeに耳を澄ませます、――。
”友よ”、
と呼びかければ、
常の煩いが熔けてゆきます、――。
今西錦司さんは、
”ぼくはやはり山でなにかしら感じる。
じかにそれをハダで感じるというときに、
西田さんのいう《純粋経験》とか《行為的直観》のようなものが
あるのじゃないかという、
これは信念みたいなものですけれども、
それがある・・・”、
と語り、また別なところで、
”未だ識別という結果の現われぬ識別以前の状態にさかのぼって、
われわれが直接ものを認めるという立場を考えてみると、
それは鏡にものの映るような無意味な機械的なものではなくて、
われわれがものを認めるということは、
つまりわれわれがこの世界を構成しているものの間に備わった
このもともとからの関係において、
それらのものを認めているのだと私は思う。
いいかえるならば、われわれはつねに、相似たところも、同時に
認めているのである。
・・・
私のここで意味するような素朴な認識というものが、
かくのごとく、ものとものとを比較し、
その上で判断するというような過程を踏まなくても、
いわば直観的にものをその関係において把握する
ということであるとすれば、
ものが互いに似ているとか異なっているとかいうことのわかるのは、
われわれの認識そのものに本来備わった一種の先験的な性質である、
と言いたいのである。
そして、それというのも、
この世界を成り立たせているいろいろなものが、
もとは一つのものから分化発展したものであるという処に、
深い根底があるのであって、それはすなわちこのわれわれさえが、
決して今日のわれわれとして突発したものでもなく、
また他の世界からやって来た、
その意味でこの世界とは異質の存在でもなくて、
われわれ自身もまた
身をもってこの世界の分化発展を経験してきたものであればこそ、
こうした性質がいつの間にかわれわれにまで備わるようになった。
世界を成り立たせているいろいろなものが、
われわれにとって異質なものでないというばかりでなくて、
それらの生成とともに、われわれもまた生成していった。
そう考えれば、
それらのものの間に備わったもともとからの関係を、
われわれが何の造作もなく認識し得るということは、
むしろわれわれ自身に備わった遺伝的な素質であり、
難しいことをいいたくなければ、
われわれに備わったひとつの本能であるといっても、
間違ってはいないであろうと思う”、
と書いておられた。
”友よ”、
…お山の響がした。
そろそろ本峰へ。
お山の”懊悩”の痕を辿ります。
風が、雲が起き出しました。
凛として、天狗岩。
”天へ、そして天から生きよ”と。
山頂へと、心拍が上がります。
お山を頂いて、一息み。
山頂には百数十名もの若人の憩いがありました。
県北の高校山岳部による合同登山とのこと。
山岳部って、”絶滅危惧種”(失礼!)ではなかったのですね。
お願いして、私もパチリ。
彼らが去ったあとの静寂。
雲をかわして、ちょっとの間、湖がご挨拶。
”雨が来るぞ”と、雲。
下りましょう。