今日(3/12)は、移ヶ岳へ。
暖かな朝。「春眠暁を覚えず」とは、よくいったもの。
あろうことか、母の介護が始まって以来、初めての寝坊、
いつものひと仕事を遅らせてしまう、失態。
山歩き自体もあやしくなりかけましたが・・・リカバー。
おかげさまで。
瑞峰平への道はドライに。
登山道もすっかり春めいて来ました・・・
が、ちょっと上って北側へ回り込むと、まだまだ。
中央はトレースがなく、ふくよか。
足を入れると、長靴丈ギリギリ。行けるかな?
「どうぞ、歩いて」と雪の精。
では、ど真ん中、「王道」を歩かせていただくとしましょう。
一歩一歩に心をこめて。
しばらくして迂回して来たトレースと合流。
もう直ぐとけてしまう、この雪、この白い絨毯。
愛おしみながら・・・
いつの間にか、石切場分岐。
ターンして、山頂へ。
雪の感触が・・・
うれしい。
衛兵岩のアラン君に、礼敬。
通過のお許しを請うて・・・
ふ~、移ヶ岳を頂きました。輝るのは・・・
奥羽の山並みではなく・・・
白い雲の連連、連繹。
春は霞み。
大滝根山も・・・
高柴の衆も、霞にとけて。
陽精の祝福に与ります。
昨日は、「3.11」。
それぞれのメルクマール。
自身の過ぎ來し方をふり返れば、事業の蹉跌に始まって、
大震災~原発事故~気候変動/水害~疫病/コロナ禍~戦争/国家的テロと、
その関わりこそ、直接間接にわかれますが、
矛盾相剋、この無惨、人間の罪の赤裸、この現実は、
世界の歴史が大きな転機にあると告げています。
パウロは、新約書、ローマ人への手紙に、
「私は〈肉〉の弱さをまとった人間で、罪に売り渡されています。
私は自分のしていることがわかりません。
というのは、自分の願うことは行わず、
かえって自分が憎んでいることをしているからです」。
「善いことをしようという意志はありますが、実行に至りません。
私は自分の願う善いことはせず、自分の願わない悪を行なっているのです」。
「もし、私が自分の願わないことをしているなら、
それをしているのは、もはや私ではなく、私のうちに宿っている罪です」。
「私はなんというみじめな人間なのでしょうか!
この死のからだから、誰が私を救い出してくれるでしょう。
われらの主イエス・キリストによって、神様、感謝します!」
と、綴りました。
いつのまにか、わたしもまた、この感謝によって生きる者に。
この現実世界がどのように成り行こうとも、
この幸いから、この幸いへと、人生を全うさせ給え。
"Stop war", "No war",
"Turn, then, and live !"
いい時間を過ごせました。
帰るとしましょう。
後は・・・
すたこら。
木々と語らいながら。
瑞峰平へとたちもどれば、大滝根山と・・・
陽精のねぎらい、エ~ル。
無事の下山、
恵慈の山路に、
感謝、感謝。
fin