あるく

~山の恵みの備忘録~

思うこと

 
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  ある本を読んでいたら、その中に、
 アメリカの哲学者パースのこんな言葉が引用されていました。
 
 『十九世紀を通じて、
 経済の問題に大きな関心がはらわれてきたために、
 欲ばり(greed)の有益な効果と、
 やさしい気持ち(sentiment)の不幸な結果が、
 誇張されるようになってきた。
 そして、ついには、欲ばりこそは、
 人類の進歩と宇宙の進化における重要な動因である
 という考えに、知らず知らずのうちに帰着する哲学を
 生み出すに至ったのである。
 ……
 ダーウィンの「種の起源」は、
 進歩にかんする経済学の見解を、
 動物的ならびに植物的な生命の全領域に拡大したもの
 にすぎない。(中略)
 動物のあいだでは、たんなる機械的な利己主義が、
 動物の飽くなき貪欲(欲ばり)によって
 善い結果を生み出す力として、広く強化されている。
 ダーウィンが「種の起源」の扉に書いているように、
 その機械的な利己主義というのは
 生存競争である( the struggle for existence )。 
 ダーウィンは、かれのモットーとして、
 「あらゆる個体は自分のことに専念せよ。
 おくれたやつは悪魔につかまるぞ!」
 とつけ加えるべきであったろう。
 イエス・キリストは「山上の垂訓」のなかで、
 これとはちがう意見をのべている。
 ここに、ひとつの争点がある。
 キリストの福音は、あらゆる個人が
 その個人性を隣人への共感のうちにとけこませることから
 進歩は生じるという。
 これにたいして、十九世紀の信念は、
 あらゆる個人が
 全力をあげて自分のために努力することによって、
 また、機会がありさえすれば
 いつでも隣人を踏みつけることによって、
 進歩は生じるというのである。
 このような十九世紀の信念は、正確には、
 「貪欲の福音」と呼んでもよかろう。』
 
 
 人間の「貪る」心は、さらに、
 この「隣人への共感」という観念すらも取り込んで、
 「利便」、「快適」をスローガンに、欲望を煽り、
 欺瞞の電力を基に、「文明」を肥大させてきました。

 内村鑑三は文明を解して、――
『文明は蒸気にあらず、電気にあらず、憲法にあらず、
 科学にあらず、哲学にあらず、文学にあらず、
 演劇にあらず、美術にあらず、人の心の状態なり。
 人を尊むか、真理を愛するか、
 主義に忠なるか、正義に勇なるか、
 責任を重んずるか、義務に服するか。
 文明の程度はこれらの諸問題によって決せらる。
 文明は人の霊魂に在り、
 装飾と器具と便宜とに存せざるなり 』と。
 
 大地震、大津波、…
 自然の一吹きによって原子力発電所は瓦解しました。
 解き放たれた『龍』が吐き、撒き散らす放射能に、
 戦慄し、逃げ惑い、立ち尽くす人々、…。
 私たちは『無辜の民』なのでしょうか。
 この惨状は、あたかも私たちの「貪欲」の本性が
 曝されているかのごとくです。
 ここから何も学ばないのなら、
 或いは痴呆と呼ばれても、仕方ありません。
 
 『真の意味での文明は需要を増加することではない。
 進んで且つ思い切ってそれを減少することである。』
 (ガーンディー)
 もう縄文の時代に戻ることはできませんが、
 これから、どのような「文明」を「建てる」のか、
 一人ひとりが問われているのだと、私は思っています。