あるく

~山の恵みの備忘録~

Mountaineer Jesus

イメージ 1

(Photo/Mt.Bandai.'09,Mar.28th.)

 

 "Mountaineer Jesus" (山に登る人・イエス

 

 クリスマスが近づいて来ました。キリストの降誕祭です。聖書を読んだことのある人、ない人、それぞれどんな想いで「祝う」のでしょう。
 イエス・キリストは聖書の本懐。聖書は、それをくくられた方が「?」と感じられる様に、「旧約」と「新約」の二部を以て構成されています。
 少し読み進めてみると分かるのですが、旧約聖書では「山」が聖なる空間として用いられている箇所が多く、『イサクの献供』、『十戒』等、「神」の顕現に接する場所として、またその御声を厳かに聴く場処として特別に重んじられています。「神の山」、「聖なる山」、あるいはただ「山」として。
 新約聖書に於いてもそうした「山へ」・「山から」というエートスは綿々と受け継がれており、イエス・キリストの言行を収めた福音書においても、「山」は幾度となく登場し、特に彼の公生涯に先立つ「荒野の試み」では「高い山」が絶頂の舞台とされています。
 しかし、こうした劇的なシーンも、山に登る人(mountaineer)・イエスにとっては、山に登るという振る舞いが彼の日常に於いてもっていたであろう意味からして、なにかしら特別な、例外的なものではなかったと察せられます。

 

「…群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。」
 このマルコ福音書の一節が伝えているように、イエスが山に登られた(上られた)のは、祈るためでした。
 
 また、通常『イエスの変容』として纏められている記事にはイエスが4人パーティで高い山に登られたことが紹介されています。
「イエスはペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変り、顔は太陽のように輝き、服は光りのように白くなった。…光り輝く雲が彼らを覆った。すると、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け』、という声が雲の中から聞こえた。」
(マタイ福音書十七章1~8節)

 山登りに経歴のあるかたは、山頂でのこうした経験を、一度や二度、もっているのではないでしょうか。容易にイメージを膨らませる事ができるシーンです。
 山に登る、或いは、上るという行為・振る舞いには、ある種自己否定が伴い、自らを懲らし、心を砕き、砕かれた果てに、山を頂き、己を超える何ものかへと、そしてその前に起ちたいという下意識が、ひとすじ、ながれているにちがいありません。
 イエスはどうして山へと導かれ、そして山に上ることで、何を、どう感じ、祈り、そして至りついた地平に何を受領したのか、意志として。その爽快、愉悦、苦悩、そして歓喜。いま、山へと連なる者に、その霊性は近しくあると考えるのは、僭越でしょうか。イエスにとって神は「アバ、父よ」と語りかける御方でした。
(アバ→「お父ちゃん」)
 山人(やまんど)・イエス。彼をキリストと仰ぐクリスマスが近づいて来ました。

 

(12/20記)